「世界とは何か?」過去の不思議体験にみる量子力学的解釈

生活

皆さんは自分の記憶が本物だと自信がもてますか?

あれは15年前の出来事です。父が亡くなり、その法事で朝から家を空け夕方ごろに帰宅しました。
誰もいない居間の障子を開けると、お香のかおりが漂い香炉には火の残る線香が…。

家族で顔を見合わせ、「お父さん、来てたんだね」と不思議な気持ちでうなずき合った記憶が、今でも心に残っています。

ところが、最近になって母や姉たちと集まる機会があり、その話を話題に上げると誰もその出来事を覚えていないというのです。

そんなはずはないんです。あれから何度も母と「あの時は不思議だったね!」って共有しあったハズなのに…。
「そういえば、あんたそんなこと言ってたね~」と言われました。

姉たちも「そんな話は初めて聞いた。」と…。

これは僕の思い違いという事なのでしょうか?それにしては、あまりにもリアルに過去の記憶として残っています。

本記事ではこの事象に対しての僕なりの解釈を、心理学・理論物理学の観点から読み解いてみたいと思います。
皆さんも一緒に考察して頂けたら幸いです。

当時の状況

15年も前の出来事なので、はっきり覚えている部分と記憶のあいまいな部分とがあります。

順番に整理していきましょう。

登場人物

母がいたのは間違いありません。線香の火を見つけて最初に驚きの声を挙げたのは母でした。

皆に否定されるまでは姉たち(二人います)も一緒だったと思っていました。
しかし、二人そろって「全然知らないよ!」と言われると記憶が揺らぎます。

失礼な話ですが、母は最近物忘れがひどくなりつつあり、覚えていなくても正直不思議ではありません。
しかし、50代半ばの姉たちが二人そろって「知らない」というのですから、(僕の記憶違いじゃないとして)二人はその場にいなかったという事でしょう。

記憶では、母が居間の異変に気付いた時、僕の他に(少なくとも)ふたり、玄関で一緒に荷物の片付けをしていました。

姉でないとすると考えられるのは、”叔母” と ”いとこ” のふたり、といったところです。
※まだ、この件に関して叔母たち話をする機会がないので、今度会う機会があったら聞いてみます。

法事という認識

法事・法要での出来事としていますが。ここは僕の記憶が怪しいところではあります。
確かな事は以下の3点です。

  • 朝出かけて、何時間という単位で家をあけた。
  • 父の死後、まだ間もない時期だった。(遅くとも初七日くらい)
  • あきらかに、父の法事・法要の用事で外出していた

僕は「父が最後の挨拶をしていった」(実際みんなでそう語り合った記憶あり)という認識があるので ”初七日法要” の後の出来事としている節がありますが、そこは思い込みかも知れず。何か法要の打ち合わせ的な用事だったかもしれません。

打ち合わせだとすると、遠方に住んでいる ”叔母” と ”いとこ” が同席しているとは考えづらいですが。

そして「こんな不思議なことがあるんだねぇ。」という誰かの(母だと思うのですが)発言を聞いています。

誰も知らないという事実

この不思議だけど、家族のつながりを再確認するような体験は僕の心の中に強烈な印象として残りました。それが揺らぐことになったのは、僕に新しい家族が出来てみんなで実家に帰った去年(2024年)のことでした。

過去の様々なエピソードを語らう中、僕は定番話のつもりで件の話を持ち出したのですが。
姉たちの反応は「なにそれ?知らないんだけど。」

この話は姉や母との間では共通の体験だったはず…。何度も「あの時は不思議だったね~」って僕は共有していたつもりだったのです。

確実に何度かこの話をしていたハズの母は「そういえば、そんな事いってたわねぇ。」

…。

僕が一人で言ってたってことでしょうか?

心理学的観点「記憶は記録されるものではなく、再構成されるもの」

心理学的観点からみれば僕以外の当事者(母や姉たち)の否定は、謎を深めるどころか現実には何も不思議な出来事は起こっていなかったという見解の有力な材料になります。

心理学・脳科学的には「記憶は後から再構成される」書き換え可能な黒板のようなものなのです。

記憶の再構成性

記憶は「一度保存されたら永久に固定されるもの」ではなく、思い出すたびに編集されうる“物語”のようなもの。
心理学者エリザベス・ロフタスの研究によれば、言葉づかいや他者からの情報によって、人の記憶内容は大きく書き換えられることがあるといいます。(Loftus & Palmer, 1974)。

彼女の有名な研究では、意図的に誤った情報を与えることで本当は経験していない記憶をあたかも実際に起こった出来事として植えつることに成功しています。

被験者に幼児期のいくつかのエピソードとともに、実際には経験していない ”ショッピングモールで迷子になる” という偽のエピソード記憶を与え、その時の様子を詳細に思い出させるように誘導しました。

すると、被験者の25%がその記憶を実際の体験と認識して、その細部(迷子の管理室まで連れて行ってくれたおじいさんの着ていた洋服の色など)まで ”思い出した” というのです。

この研究を客観的にみれば、僕の記憶は ”誤った情報の副産物” と考えるのが自然ですが…。

感情の強さと記憶の定着(フラッシュバルブ記憶)

強烈なインパクトを与える出来事を体験すると、人間はその時の自分の状況をを鮮明に長期間、記憶し続ける傾向があり、それを ”フラッシュバルブ記憶” と呼びます。

Brown & Kulik (1977) の研究では、ケネディ大統領の暗殺の際、被験者にどこで何をしていたか?という質問を投げかけると、多くの人が ”誰と” ”何をしていたか” という詳細を答えることが出来たのだそうです。

この線香の記憶も、もしかするとそうした“心に焼きついた瞬間”だったのかもしれない。
父の死という非現実、家族のつながりを再確認させられた時期。
それらが僕の中で記憶を強く定着させ、時間がたっても色あせることなく残っている——そんな可能性があります。

重要なのはフラッシュバルブ記憶は、本人の主観的な確信がとても強いのに、記憶の正確性が必ずしも保証されていないことです。
つまり、「あまりに印象的だから本当に起こったと信じてしまう」という記憶の限界を表しているのです。

集団記憶と個人記憶のズレ(スキーマ理論)

ここまで検証してきた2つの解釈は、結論的に ”僕自身の記憶の齟齬” という観点に立っています。

今度は、確かに それらしい・・・・・(僕の記憶通りではないにしろ)出来事は実際に起こっており、とらえ方や解釈の違いで家族間の記憶のずれが起きたという可能性です。

心理学では、「同じ出来事を経験しても、人はそれぞれ異なる記憶を持つ」という現象が繰り返し観察されてきました。
これは「個人記憶(individual memory)」と「集団記憶(collective memory)」のズレとして研究されるテーマです。

イギリスの心理学者フレデリック・バートレットは、1930年代に行った有名な「幽霊の戦い」実験で、人間の記憶がどれほど “主観的に作られた物語” なのかを明らかにしました。

バートレットは、被験者に馴染みのない物語(北米のインディアンの民話「幽霊の戦い」)を読ませ、その後、時間を置いてその物語を再生(想起)させる実験を行いました。

その結果、再生された物語は、元の物語から系統的に変化していることが観察されました。これらの変化は、被験者の文化的背景や既存のスキーマ(個々の概念)に合わせて物語が合理化、単純化、歪曲される傾向を示していました。
例えば、馴染みのない固有名詞がより一般的な言葉に置き換えられたり、超自然的な要素が日常的な出来事に解釈されたりしました。

つまり、同じ現象を体験したとしても個々の心の中の現実は必ずしも一致しないのです。

逆に、自分の記憶がそれを共有する他の人の主導的な見解に引きずられて変容してしまう事もあるでしょう。

では、家族全員で経験したはずの線香の出来事。
あのときの“異変”を、なぜ僕だけが覚えていて、他の家族は記憶していないのでしょうか?

この理論から、記憶の齟齬を引き起こす原因として考えられるのは。

  • 文化的 ”スキーマ” の違い
  • この出来事から受けうるインパクトの差
  • 解釈の違いによるその後の記憶の変容

当時僕は家を出ていて一緒には住んでいなかったとはいえ、家族間の問題である以上 ”文化的スキーマ” の違いという可能性は退けていいでしょう。
また、父の再訪という出来事は家族にとって共通した ”大きなインパクト” のはずです。

となると、出来事に対する解釈の違いが記憶の変容、および定着に影響を与えたという考えはどうでしょうか?

常日頃から、形而上学的な問いを考えるのが好きな僕は、このある意味 ”霊現象” と言える出来事に遭遇し、その後もことあるごとに「何が起こったんだろう?」と再考していました。
しかし、母や姉たちにとっては「お父さんが挨拶していったんだね」と、完結した出来事として捉え記憶の奥にしまい込まれたのではないでしょうか?

しかし、完全に忘れるというのはどうも府に落ちません…。

量子力学的観点:あの日僕だけが別の世界線にいた?

本当は何が起きていたのか?違った観点から読み解いてみましょう。

ミクロの世界を記述する ”量子力学” をもちいて、あの日の出来事の違った可能性を見出していきまたいと思います。

私たちの生きる世界の本質に迫ります…。

と、いう体で話す SF的解釈 です。気軽な気持ちで付き合ってください!

量子力学とは

量子力学とは、この世界を構成する原子や電子など非常に小さなスケールのふるまいを記述する物理学の理論です。
この理論は私たちの通常の感覚とは相いれない不思議なふるまいを予言しています。例えば

  • 粒子は波のようにもふるまう(波動性)。
  • 状態は「重ね合わせ」として存在し、観測するまで結果が決まらない。
  • 確率」で未来を予測する理論(決定論ではない)。
  • 観測によって状態が「収束」する(波動関数の収縮)。
  • 不確定性原理」により、位置と運動量などを同時に正確に知ることはできない。

つまり、小さなスケールで光や電子などの量子は
「確率っていう雲みたいな中で、ぼやっと存在していて誰かが見るまで(観測)どこにいるのかわからない」という性質を持っています。

量子力学から導かれる ”多世界解釈”

そんな量子力学の予言で ”多世界解釈” というのがあります。

もう一つの20世紀を代表する物理理論「一般相対性理論」と整合性をとろうとした時に導かれる、
「宇宙にはたくさんの別次元があって、そこにはちょっとずつ違う世界が無数に存在するんじゃないの?」という考えです。

SF的にいうと「パラレルワールド」といったイメージでしょうか。

「別の宇宙には“もう一人の自分”が無数に存在するかもしれない!?」

この考えを僕の不思議体験にあてはめるなら、「父の気配と線香の匂いを皆で共有した世界線」と、「そんなことは起こらなかった世界線」とがどこかの時点で分岐したのかもしれません。

僕はあの瞬間別の世界線に迷い込んでいたということです。

ではどこで別の ”世界線” へ移動したのか?

仮に多世界的解釈を採るなら、「分岐点」はどこだったのでしょうか?

  1. 家族で不思議な体験をしたあの日の夕方
  2. そのことを家族で話し合って不思議を共有した日から今までのどこかの時点
  3. 家族での体験が覆って、僕の個人的な体験に変容した時

あの日、不思議な現象が起きた世界線 に足を踏み入れ、また戻ってきたのか?
元々いた世界線で例の体験をした後 ”不思議なことなど起こっていない” 今の世界線へ移動し
今こうして記憶の整合性を失っているのか?

観測者問題と「主観宇宙」

量子力学の世界では、「観測者が結果を確定させる」という考え方がしばしば語られます。

この考えを人間の記憶に重ねるなら、「私が強く意識し、意味づけした瞬間」にその出来事は確定し、他者は観測していないがゆえに「なかった」ことになったとも言えます。

つまり、主観が宇宙を分岐させているような感覚。

もしかしたら「この文章を書いている今」こそがまさに分岐点になっているのかもしれません…。

メタファーとしての ”量子力学的解釈”

と、ここまで書いてきてなんなのですが。

現代の物理学では、私たちのようなマクロな存在が量子的に分岐したり、別の世界の自分とつながったりすることは原理的に起こりえないとされています。

だから、この ”量子力学的解釈” は理論的には成り立たないのです。

それでも、「あの日確かにあった」と信じる記憶が、誰の記憶にも残っていなかったとき…
僕の主観世界にだけ分岐が起きた、そんな想像をしてしまうのです。

参考書籍


野村泰紀氏の著書『多元宇宙(マルチバース)論集中講義』

最新の量子物理学から導かれる マルチバース宇宙論 を素人でもわかりやすく解説してくれる本です。
今回僕が書いたような 超科学的内容でなく、きちんとした理論物理学に基づいた内容ですので興味のある方は一度手に取ってみて下さい!

まとめ

僕の記憶の中では確実に起こった現実…。

記憶というのはこんなにももろいものだと締めくくるべきなのでしょうか?

だとすると、僕が僕の半生だと思っている様々な記憶は本当に信じていいのでしょうか?

そして「記憶の齟齬」ではなく、本当にあの体験が現実で、何かしらの理由で僕以外の記憶から消えてしまっているのだとしたら、そもそもあの現象は何だったのでしょうか?

という僕に不思議体験をお届けしましたが「へー不思議だねー」と興味を持っていただけたら幸いです!

もし同じような経験のある方がいたら是非教えてください。

また、皆さんの解釈もお聞き出来たらうれしいです!

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