今回は僕の心の中で時折おこる、うまく表現できない心の動き。一番近い感情が “閉じ込められる恐怖” でしょうか?
そんな感覚、思いについて、吐き出してみたいと思います。
デトックスです。(^-^)/
同じような想いを抱えた方がいらっしゃいましたら、是非話を聞かせてもらえたら嬉しいです。
ある夜の喪失感、もう触れられない時空について
10代の頃から、僕はギターを弾き、仲間とバンドを組んで音楽を志していました。
様々なバンドを渡り歩いて、長年の活動の記録をCDやDVDなどに記録してあり、それをひとつのケースにまとめて保管していました。
別に引っ張り出してきてビデオを観る事も、音源を改めて聴き直すことも殆どありません。ただ、アーカイブとして保管しているだけです。
ある時、子どもが産まれて部屋が手狭になるということで、必要のないものは軒並み捨ててしまおうと荷物の整理をする機会がありましたが、その時に勢い余った僕はそのCDやDVDたちをケースごと処分してしまったのです…。
「何年も手をつけていない物は、必要ない物です」
そんな、片付けコンサルタントのYouTube動画に感化されて。
「もう音楽に本気で向き合うこともない、昔の思い出はもう必要ない。」
そんな風に考えてしまいました。
ふと目が覚めた真夜中、押し寄せた後悔そして恐怖

しばらくたったある夜、真夜中にふと目が覚めた僕は、おそらく夢の中の感情を引きずったまま。もはやその夢の内容などは覚えていませんが、いきなり物凄い “喪失感” が襲ってきました。
あの音源…なんで捨ててしまったんだろう?
そこには僕がむかし見た景色が詰まっていました。
場末のライブハウスのタバコ臭い空気や仲間たちの熱気。良い思い出も悔しかった現実も全て含んで。
あぁ、もう2度と帰ってこないんだな…
僕の人生の一部に、まるまるアクセスする術を失ってしまった感覚は
「悲しい」とか「惜しい」とかいうものじゃなく。
「怖い」という感情が一番近いものだったんです。
時空へのアクセス権を失う、それは死の恐怖と同じ根をもつ感覚

真夜中に僕は1人で、世界の色を失い気が遠くなるような感覚に陥ってしまいました。
もう2度とあの瞬間に触れられない…
特定の時空へのアクセスを永遠に失ってしまって、まるで出口の塞がれた洞窟に1人取り残されたような感覚。
今思えば、さすがに大袈裟に思えますが、その時には「死の間際で、生を懇願する」
という事と同じ思いでした。
そしてその夜は、結局朝まで一睡もできずに、まんじりと過ごしたことを覚えています。
仏教的な見知「無常」と相対する

仏教の根本的な思想に「無常」というものがあります。
形あるもので、永遠に変わらないものは何ひとつない。全ては少しづつ形をかえ、今この瞬間、仮に存在しているだけである。
よって、物事に執着するということは、私たちの ”苦” の元凶である。全てのものは流転し、いずれかたちを失う物なのだから。
僕は仏教の考え方や歴史が好きなので、本や動画などでそんな教えに触れる機会も多々ありますが、
頭でわかっていても “無常” を受け入れ、執着を手離すことが出来るほど人間できていません。
失いたくなく、怖いのです。
まさに、この時に感じた「恐怖」は、執着からおこる “苦” その物だったように思われます。
「失うことへの恐怖」その穴埋めの役割を担う様々な “宗教”

この喪失感、ひいては「失うことへの恐怖」を、様々な宗教は和らげてくれる力があります。
例えば
神様の世界ではこれ以上の “喪失“ はありません。そこには永遠が約束されます。
といった具合に。
しかし、僕は特定の宗教に信心をおくことはできないたちです。
救いの物語に身を委ねることはかないません。
再び仏教的知見 「観察」するという事

仏教の面白いところは、自分の心の在り方を
「観る」ということに重点が置かれているところです。
恐怖を消す物語などありません。ただ、静かに「観察」するのです。
ヴィパッサナーという瞑想法の実践では、恐怖や空虚を否定せず、
それらを静かに観察する。
やがてそれも、湧いては消える一つの現象だと気づく。
「恐怖を消す」のではなく、「恐怖が生まれ、消えていく様を観る」
心に浮かんだ「恐怖」を
恐怖 恐怖 恐怖 と受け流す
それが逆に “生きる” という感覚を研ぎ澄ませてゆきます。
ヴィパッサナー瞑想については以前こちらの記事で取り上げました
子育てでつい怒ってしまうあなたへ。感情に振り回されない“気づき”の子育て術
不安を抱えたまま生きてゆく力を育てるという事です。
芥川の「ぼんやりとした不安」と、いまを生きる私たち

文豪、芥川龍之介は35歳で自ら命を断ちました。その死にあたって友人に宛てた遺書にはこんな言葉がありました
「何か僕の将来に対する唯(ただ)ぼんやりとした不安」
なんとなく僕は、僕が「時空とのアクセスを失った瞬間」に近い感覚なのではないかと想像しています。
日々生活の中、心のまわりに纏った様々な些末な事柄。
僕たちは裸の心を忙しさの衣でまとって、日常を生きています。
それが、ふと魔が刺した瞬間、前触れもなく自分の心の芯が剥き出しになる。
そして、世界と自分との間の接続がただ頼りなく曖昧に思えてしまう…。
僕は「ぼんやりとした不安」とは、そんな瞬間に陥る感覚のことではないかと想像しています。
でも、もしもそうなら尚更生きてみれば良いのです。
徹底的に自分の真ん中にある、頼りなくて先の見えない本質を味わってしまえばいい。
恐怖、それは生きている証拠

夜中に色が失われるような感覚が訪れたら、逃げずに呼吸する。
その怖さを「現象」として観察し、
息の往復、布団の重み、夜の匂いに意識を戻す。
すると少しずつ、世界の輪郭が戻ってくる。
些末な日常の苦楽の中に身を委ねる。
(これを煩悩と呼ぶのかもしれませんが)
確かに、ここにいる
それが “宗教的ではない救い” の形。
恐怖も虚しさも、生の一部として受け入れながら、ただこの瞬間を味わう。
そこに、確かな生の手触りがある。
まとめ

今回は僕の心の中にある不安に焦点を当ててみました。
抽象的な表現が多めになってしまいましたが、共感してくれる人もいるのではないでしょうか?
どんなにもがいても、手が届かなくなってしまうもどかしさ…。
それが ”生きている“ という事なのかもしれません。
もしも、僕と同じような不安に陥るようでしたら、少しこの記事のこと思い出してみてください。
あっ、ちなみに僕のCDやDVDのアーカイブ。全然捨ててませんでした。
多分、直前にみていた夢の中で、僕はそれらを失った気になっていたんでしょうね。
なんで、あの夜にあんな勘違いをしたのか、ちょっと不思議です。
同じような不安に苛まれる事があれば、ちょっとこの話を思い出して見てください!

